ISBN:4480102361 文庫 中島 敦 筑摩書房 ¥1,200
書評というか、今この本の「山月記」を読んでレポートを書いてるとこです。とくに全集を出してくる意味はないんですが、この全集の「山月記」を読んだので引っ張ってきました。
レポートが書きあがらない・・・困ってます。
月曜日までに4000字以上・・・大丈夫かな;
考えが全くまとまらない。
論文をもっと読むべきなのか。
誰か助けてください(・_・、
〈ここからその後編集しなおしました。まじめに「山月記」について・・・〉
中島敦の「山月記」を読んだときに誰もが最も気になることというのは、なぜ李徴が虎という姿に変身してしまったのか、ということではないでしょうか。本文を読んでいくと、李徴によってそれは推測されています。しかしそれが正解なのか、また別の何かによるものなのかなどはどこにも書かれていません。私たちはその答えを与えられることはないのです。しかし、李徴がどのように考え、推測したのかということは知ることができると思います。
なぜ李徴が虎に変身してしまったのかと言う原因・理由を探ることができる箇所がいくつか挙げられます。まず、どうして李徴が今の姿となるに至ったかということを袁慘に訊ねられた箇所。
そこには李徴が虎に変身していく過程が描かれています。
そこで出てくるのが李徴を呼ぶ「声」です。李徴はこの声を追って知らぬ間に虎に変身していたといいます。その「声」とは何だったのでしょうか。外部の何者かによるものだったのか、李徴の内なる「声」だったのか・・・。この「声」については後にまわすこととします。つぎに、続けて李徴が語ったことを見ていくと、李徴は自分自身の変身の理由は全く検討がつかず、これが「さだめ」なのだと言っています。私たちが何故人間に生まれたのかという事を考えるのと同じくらいに、李徴が虎になったことは理由をつけるのが難しい事なのではないでしょうか。それは「さだめ」としか言いようがなく、説明のできないことなのです。しかし、人間として生まれたものが虎になることなど現実にはありえないことであり、この「山月記」の中の世界でも本来は李徴の変身はありえない出来事です。それが何故起こったのか、何か原因となることがあったのではないかと過去を振り返り、原因を考えるのは自然なことだと思います。
次の箇所で李徴は「なぜこんな運命になったか判らぬ」と言ったことを否定し、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもないと言い語り始めます。李徴が虎に変身した原因として、李徴自身が思い当たったことが述べられているといえます。李徴が変身の理由・原因として思い当たったことというのは、李徴が飼い太らせてしまった猛獣=性惰によって姿を変えられてしまったということです。性惰とは自らの「臆病な自尊心」と、「尊大な羞恥心」です。ここで、先程挙げた「声」の問題に戻りますが、「声」に呼ばれ、それを追ううちに虎に変身させられたということは、「声」が変身のきっかけと言って良いと思います。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性惰」であるならば、虎となってしまった李徴は、猛獣使いであったはずの己の内にいる猛獣を制御しきれなかったと考えられます。その猛獣は虎であり、己の内にいる猛獣に李徴は食われてしまったのです。つまり虎に取って変わられてしまったために姿を変えられたのではないでしょうか。そうだとすれば、変身のきっかけとなった「声」とは、李徴の内にいた猛獣=虎が発した「声」だったと言えます。
次に袁慘との別れ際に李徴が袁慘に妻子のことを頼んだ後に語ったことを見てみる。李徴が何故虎という姿に変身したのかということは、「山月記」の本文中においては李徴の告白に頼るしかないのですが、しかし、このことからも分かるように「山月記」の本文からは、李徴の考えや推測は知ることができるけれど、必ずしもそれは正確なものとは言えないようです。李徴には自分に降りかかった問題を客観的に見ることができないからです。まして李徴には自嘲癖があるといいます。このような李徴の語りはあくまで主観的なものとしてしか読むことはできないでしょう。
ここまで、李徴が考え、推測した虎に変身した原因・理由を見てきましたが、中村良衛は「彼(李徴)が述べた事柄の中から原因・理由を確定しようというのはむしろ慎むべき」という考えを示しています。これは、鷺只雄と佐々木充によって論争された問題について述べられたものです。「〈李徴はなぜ虎になったのか〉を確認した上で〈李徴の詩における『欠ける所』とはなにか〉に及び、李徴の『人間性』を論ずること。しかも論ずるというより、彼を論理的に裁断しがちであること。『山月記』論の多くにこれは認められる。」これが何故問題なのかといえば、「〈李徴の詩における『欠ける所』とはなにか〉」という問題が〈李徴はなぜ虎になったのか〉を確定した上で考えられてきたためです。そのため、中村は〈李徴はなぜ虎になったのか〉ではなく、虎になったという李徴にとっての「その現実と彼は如何に向き合ったか。またその現実に向き合わねばならなかった李徴とは如何なる存在なのか。」という点を論じなければならないというのです。
本文の最後にある、李徴が袁慘たちの前に姿を現すという行為は、人間の李徴には出来なかったことといえるだろう。虎という姿は李徴が内面に持ち続けていた部分であり、人にそれを見せることができなかったのが李徴だったはずです。しかし、それを一歩超えたのが虎に変身した李徴。自分の内面と向き合い、自分を見つめ返したとき初めて自分の醜い部分も受け入れ生きていくことができるようになったのです。
このように、〈李徴はなぜ虎になったのか〉ということを考えたときには、李徴のマイナス部分しか見えてきませんでしたが、李徴がその現実と如何に向き合い、またその現実に向き合わねばならなかった李徴とは如何なる存在なのかということを考えたとき、虎となった李徴が決してそれまでと同じ李徴ではない存在になっているということに気がつきます。李徴の欠けていた部分というのは、虎という状況になって初めて自分自身によって見直され、そして補われたといっていいのではないでしょうか。
李徴がなぜ虎になったのかということはとても興味を引かれることですが、その後李徴がどのように生きたのかということに、作者は目を向けて欲しかったのではないかと思います。人の過去のことは気になることですが、人のその後の未来に目を向けるということも必要なのだと思いました。
・・・私の考えをまとめるとこんなカンジでした。書評とは違うかもしれませんね;
読みにくいものをここまで頑張った方、お疲れ様ですw
書評というか、今この本の「山月記」を読んでレポートを書いてるとこです。とくに全集を出してくる意味はないんですが、この全集の「山月記」を読んだので引っ張ってきました。
レポートが書きあがらない・・・困ってます。
月曜日までに4000字以上・・・大丈夫かな;
考えが全くまとまらない。
論文をもっと読むべきなのか。
誰か助けてください(・_・、
〈ここからその後編集しなおしました。まじめに「山月記」について・・・〉
中島敦の「山月記」を読んだときに誰もが最も気になることというのは、なぜ李徴が虎という姿に変身してしまったのか、ということではないでしょうか。本文を読んでいくと、李徴によってそれは推測されています。しかしそれが正解なのか、また別の何かによるものなのかなどはどこにも書かれていません。私たちはその答えを与えられることはないのです。しかし、李徴がどのように考え、推測したのかということは知ることができると思います。
なぜ李徴が虎に変身してしまったのかと言う原因・理由を探ることができる箇所がいくつか挙げられます。まず、どうして李徴が今の姿となるに至ったかということを袁慘に訊ねられた箇所。
そこには李徴が虎に変身していく過程が描かれています。
そこで出てくるのが李徴を呼ぶ「声」です。李徴はこの声を追って知らぬ間に虎に変身していたといいます。その「声」とは何だったのでしょうか。外部の何者かによるものだったのか、李徴の内なる「声」だったのか・・・。この「声」については後にまわすこととします。つぎに、続けて李徴が語ったことを見ていくと、李徴は自分自身の変身の理由は全く検討がつかず、これが「さだめ」なのだと言っています。私たちが何故人間に生まれたのかという事を考えるのと同じくらいに、李徴が虎になったことは理由をつけるのが難しい事なのではないでしょうか。それは「さだめ」としか言いようがなく、説明のできないことなのです。しかし、人間として生まれたものが虎になることなど現実にはありえないことであり、この「山月記」の中の世界でも本来は李徴の変身はありえない出来事です。それが何故起こったのか、何か原因となることがあったのではないかと過去を振り返り、原因を考えるのは自然なことだと思います。
次の箇所で李徴は「なぜこんな運命になったか判らぬ」と言ったことを否定し、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもないと言い語り始めます。李徴が虎に変身した原因として、李徴自身が思い当たったことが述べられているといえます。李徴が変身の理由・原因として思い当たったことというのは、李徴が飼い太らせてしまった猛獣=性惰によって姿を変えられてしまったということです。性惰とは自らの「臆病な自尊心」と、「尊大な羞恥心」です。ここで、先程挙げた「声」の問題に戻りますが、「声」に呼ばれ、それを追ううちに虎に変身させられたということは、「声」が変身のきっかけと言って良いと思います。「人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性惰」であるならば、虎となってしまった李徴は、猛獣使いであったはずの己の内にいる猛獣を制御しきれなかったと考えられます。その猛獣は虎であり、己の内にいる猛獣に李徴は食われてしまったのです。つまり虎に取って変わられてしまったために姿を変えられたのではないでしょうか。そうだとすれば、変身のきっかけとなった「声」とは、李徴の内にいた猛獣=虎が発した「声」だったと言えます。
次に袁慘との別れ際に李徴が袁慘に妻子のことを頼んだ後に語ったことを見てみる。李徴が何故虎という姿に変身したのかということは、「山月記」の本文中においては李徴の告白に頼るしかないのですが、しかし、このことからも分かるように「山月記」の本文からは、李徴の考えや推測は知ることができるけれど、必ずしもそれは正確なものとは言えないようです。李徴には自分に降りかかった問題を客観的に見ることができないからです。まして李徴には自嘲癖があるといいます。このような李徴の語りはあくまで主観的なものとしてしか読むことはできないでしょう。
ここまで、李徴が考え、推測した虎に変身した原因・理由を見てきましたが、中村良衛は「彼(李徴)が述べた事柄の中から原因・理由を確定しようというのはむしろ慎むべき」という考えを示しています。これは、鷺只雄と佐々木充によって論争された問題について述べられたものです。「〈李徴はなぜ虎になったのか〉を確認した上で〈李徴の詩における『欠ける所』とはなにか〉に及び、李徴の『人間性』を論ずること。しかも論ずるというより、彼を論理的に裁断しがちであること。『山月記』論の多くにこれは認められる。」これが何故問題なのかといえば、「〈李徴の詩における『欠ける所』とはなにか〉」という問題が〈李徴はなぜ虎になったのか〉を確定した上で考えられてきたためです。そのため、中村は〈李徴はなぜ虎になったのか〉ではなく、虎になったという李徴にとっての「その現実と彼は如何に向き合ったか。またその現実に向き合わねばならなかった李徴とは如何なる存在なのか。」という点を論じなければならないというのです。
本文の最後にある、李徴が袁慘たちの前に姿を現すという行為は、人間の李徴には出来なかったことといえるだろう。虎という姿は李徴が内面に持ち続けていた部分であり、人にそれを見せることができなかったのが李徴だったはずです。しかし、それを一歩超えたのが虎に変身した李徴。自分の内面と向き合い、自分を見つめ返したとき初めて自分の醜い部分も受け入れ生きていくことができるようになったのです。
このように、〈李徴はなぜ虎になったのか〉ということを考えたときには、李徴のマイナス部分しか見えてきませんでしたが、李徴がその現実と如何に向き合い、またその現実に向き合わねばならなかった李徴とは如何なる存在なのかということを考えたとき、虎となった李徴が決してそれまでと同じ李徴ではない存在になっているということに気がつきます。李徴の欠けていた部分というのは、虎という状況になって初めて自分自身によって見直され、そして補われたといっていいのではないでしょうか。
李徴がなぜ虎になったのかということはとても興味を引かれることですが、その後李徴がどのように生きたのかということに、作者は目を向けて欲しかったのではないかと思います。人の過去のことは気になることですが、人のその後の未来に目を向けるということも必要なのだと思いました。
・・・私の考えをまとめるとこんなカンジでした。書評とは違うかもしれませんね;
読みにくいものをここまで頑張った方、お疲れ様ですw
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